仮設暮らし、移住、そしてがん… 福島原発事故で避難した女性の苦悩
東日本大震災から11日で7年7カ月。いまだ不明者は2536人(9月時点)を数えますが、明石ではどこか遠い出来事になっています。そんな中、震災に伴う福島原発事故で、福島県浪江町から三木市吉川町に移り住んだ菅野みずえさん(66)が、震災からの7年半、福島の今を明石市内で語りました。「終わったことじゃない、あすはあなたのこと」--。こう訴える菅野さんの話に耳を傾けてみませんか。
あの日、私は原発から3キロ離れた福島県大熊町にいた。午後5時まで働き「あしたも出勤する」と言ったら、上司が「あすは分からないのでまた連絡する」と。原発で何が起きているのか、浪江町にはまったく情報がなかった。
放射性物質の拡散をコンピューターで予測した結果さえも知らされなかった。
浪江町まで道が崩落したり、電線が垂れたり、パニック映画の中にいるようだった。ようやく自宅に着くと、12日夜までに親戚ら25人が避難してきた。
共同生活のルールを決めたところで、白い防護服に身を包んだ人が庭先に車を止めた。
話すと「頼む。逃げてくれ。放射性物質が拡散しているんだ」と真剣に訴えられた。
もう一度みんなで話し合い、それぞれ町外へ避難することになった。私が動いたのは15日に全町避難が発令されてから。
息子は当時、地元の消防団員。「逃げるよ」と私が告げると、「こんな時だからこそ逃げるわけにいかね」と。娘が電話で「あなただけのお母さんじゃない」と何度も電話してきたが、「町が動かない限り、ここで避難者支援をする」と動かなかった。
でも全町避難が決まり、息子も動かざるを得なくなった。
「もうここには戻れないだろう。必要な物だけを持っていこう」と冷蔵庫の食品もすべて出し、持っていた種をすべてまいた。かわいがっていたシンビジウムの鉢植えも外に出した。
米150キロと喪服、お数珠だけを軽乗用車に積んで出発した。
途中、中央高速のコーヒーショップでカフェラテを飲み「ここには普通の暮らしがあるんだ」と思ったら泣けてきた。
避難した先で知人に「あなたたちが避難して来たので放射能汚染が広がった」と言われ「私は腐ったミカンか」とショックを受け、再び福島県の仮設住宅へ。そこも閉鎖され、最後は桑折町の仮設に移った。
支援物資には感謝しているが「こんなものが」と思う物も少なくなかった。
しみだらけのシーツや血のしみが付いた生理用ショーツ…。私がもらった布団は男性用整髪料の臭いがどうやっても取れず、仮設暮らしがいつまで続くか分からないこともあって、本当につらかった。
2015年の夏、夫が見つけてくれた三木市吉川町の家に引っ越した。
浪江町の自宅の3分の1の広さになったが、玄関の構造は同じように建ててもらった。
三木に来る前の検診では何もなかったが、翌16年2月の避難者検診で異常が見つかり、福島県で小児甲状腺がんと診断された子どもたちと同じように、リンパ節に転移があった甲状腺がんだった。
手術で左の甲状腺を切除した。今もホルモン剤を飲み続けている。
【写真】事故7年目の我が家に帰る
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