2児の母親が…
原発損害賠償京都訴訟原告団のお母さんからのメッセージ。11.16原発事故被害者集会で代読された〔抜粋〕。事故がなければ裁判とかまったく縁もなかったような人たちが訴えています。
私たち避難者は、得られるべき情報が乏しく不当に被ばくしました。
「スクリーニング証」がなければ、次の避難所へも、病院へも行けなかったのが、当時の私たち被爆者がうけた現実です。爆発が続くたびに動くこともままならず、死を覚悟したのが、現実です。
私たち避難者とよばれる民は、子供たちの健康を考え、避難しました。自分の不安な気持ちを抑えきれず、怖さに耐えきれず、避難しました。 町の人が次々にいなくなってしまって、やむなく避難しました。 愛する家族と離れ離れになりましたが避難しました。 友達にさよならを言わずに避難しました。 頑張ってこつこつ成果を上げていた仕事をやめて避難しました。 避難したくても、ガソリンが手に入らずに避難できませんでした。 部員で一丸となって目指していた全国大会の夢が絶たれても、避難しました。
国や自治体の指示を待って屋内退避していたら、思っていたよりもとても遠くに避難させられ、病気になりました。 避難中に知り合いのおばあさんが亡くなりました。 避難先でなかなか仕事が見つからず、溝が深まった人が住まうふるさとへ戻ることにしました。
子供が避難先の生活に馴染めず除染の進まないふるさとへ戻ることにしました。 避難先で家賃が支払えずに、身も心もぼろぼろのまま戻ることにしました。 避難することを今でも理解されず、深い溝をお互いの間に残したまま、避難しました。 避難したくても、家族に言えない女学生がいます。
3年が経とうとしている今、避難に関して言えることは、何も解決に向けて動いていないということです。
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