あの時を心に刻む (99)
卒業式ができない状況だった小学6年生のために田村市総合体育館で開いた「卒業を祝う会」では、喜びや励ましの声を多くもらう一方で、「田村市の学校でも卒業式や終業式を実施できないのに」 という指摘もいただきました。県外に避難し、報道で会の様子を見たという保護者の方からは「自分の子どもは祝ってもらえない。悲しくテレビを見つめました」という電話をもらいました。福島第一原発の吉田昌郎所長(当時)から電話を受けたのも体育館でした。吉田所長は「町長、こんな事態になって申し訳ない。収束に向けて取り組むからよろしくお願いします」と声を振り絞るように言いま した。大きな声を出して物事が解決するのなら100回でも怒鳴りますが、この時、怒る気持ちにはなりませんでした。何が正しいのか、何をすべきなのか、正解のない問いを必死に解くような日々でした。
職員たちは、自身も被災し、家族の所在確認もままならない状況で、毎朝5時ごろから深夜2時ごろまで働いていました。応援に来てくれた医師から「このままでは職員が倒れてしまう」と言われましたが、十分に休ませてやることはできませんでした。会津若松市にお世話になることを決めたのは 震災から約2週間後。早い判断だったと思っていますが、その背景には町民に対するケアはもちろん のこと、職員に少し落ち着いた環境で仕事をしてほしいという思いもありました。結局は、会津に来てからも震災で一変した業務を前に、苦労をかけることになるのですが。
【あの時を心に刻む】
日本中が恐怖に震えた福島第一原発事故
もう二度とあんな事が起こらないように
祈りを込めて
毎週火曜日に掲載します。
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